「アメリカのどの家庭にも日本茶を」女性起業家の夢と挑戦①


2019年11月、RESOBOX East Villageに抹茶好きのニューヨーカー達が集まりました。 彼らのお目当ては、抹茶の栄養素や楽しみ方を伝えるイベント「抹茶マスターになろう」。主催したのはオレゴン州の日本茶の輸入販売を手掛ける「Sei Mee Tea」の店主・小池清美さんです。20数年前、アメリカ人のご主人との結婚を機に渡米した小池さん。当時は日本茶に関する特別な知識は持っていなかったという彼女が、アメリカで日本茶ビジネスを始めるに至った背景は何だったのでしょうか?

ご主人の病気をきっかけに、緑茶の効能に着目

「渡米してしばらくは別の仕事をしていましたが、夫が癌になったんです。そこで何か体に良いものをと調べていた時、緑茶にたどり着きました。当時はアメリカの田舎の食料品店でも、ちょうど緑茶コーナーができ始めた時期。買って夫に飲んでもらったところ、『こんなに不味い緑茶を飲むくらいなら死んだ方がマシだ』と言われてしまって。苦いだけで旨味が無かったんです」。オンラインショップなどはなかった当時、日本にいる友人や家族においしい緑茶の情報を聞いて回り、数種類アメリカまで送ってもらった中にオーガニックの緑茶がありました。ご主人に飲んでもらったところ、これだったら飲めると喜ばれたのだそう。「その後1日5、6回飲んでもらっていたら、5年後に癌が完治して。主治医にもう病院に来なくて大丈夫と言われました。ただ、今飲んでいる緑茶は飲み続けてと。主治医も色々と調べた結果、緑茶の効能を認めていたんです」。この体験が、緑茶の効能や素晴らしさをアメリカで伝えたいという小池さんの強い意欲に繋がりました。今から15年前のことです。

起業当時の小池さんご家族。お子さんはお母さんが働く姿を近くで見ていたそう

アメリカで飲まれていたのは、本当の緑茶ではなかった

小池さんが最初に行ったのは、緑茶に関する街頭アンケートでした。ちょうど緑茶の人気が出てきたところだったので、アメリカでは実際どのくらい飲まれているか知りたかったのです。しかし分かったのは、緑茶好きを自称する人でさえ飲む頻度は1週間に1回程度だということ。しかも人工甘味料が入った、本来の緑茶とはかけ離れたものが飲まれていました。緑茶の健康効果が雑誌などで注目されているのに、実際に出回っている緑茶ではそのような効果は得られない。この事実を目の当たりにした小池さんは、日本の緑茶を広めるべく起業を決意したのです。まずは日本に渡り、コネクションがない状態から製茶会社を次々と訪問。少量で卸してもらうことに成功します。更にアメリカに戻った後は起業のための手続きや、ビジネスプランの作成、商品ラベルのデザインなど着々と準備を進めていきました。「最初の商品が届いた時はちょうどサンクスギビングの時期でした。集まった親族総出で手分けしてラベルを貼ってもらったのは良い思い出です」。こうして会社や商品を整え、いよいよ販売へと進んでいきました。

起業当時の小池さん。オリジナル商品を含むクリスマスギフトセットとともに

成功のカギは、対面コミュニケーション

「これからアメリカでの起業を考えている人にぜひお伝えしたいのは、お客様と対面することの大切さです」と強調する小池さん。最初の販売場所は、サンクスギビングやクリスマスホリデーイベントでした。販売店を通してではなく、まずは直接お客様に売ることにこだわったのです。大切なのは、緑茶の文化がない所では、簡潔に商品の魅力を説明し熱意を伝えること。なぜその商品がお客様に必要なのかを分かって頂ければ売れると、小池さんは確信しているのです。結果、初めての出店にも関わらず用意した緑茶はすべて完売。その後も小さな二人のお子さんを連れながらイベント出店を重ね、地元から遠い所にも出かけて徐々に販売エリアを広げていったそうです。オンラインショップが主流でなかった当時、イベント出店は緑茶の魅力を知ってもらうのに絶好の機会でした。また対面販売のもう一つの利点はアメリカ人のお客様の反応やニーズを確実に把握できること。貴重な勉強の場でもありました。一方、せっかくイベントで買って気に入ってもらっても、再び買える場所が近くになければお客様をがっかりさせかねません。そこでイベントに出店する際には、必ず会場近くの小売店やギフトショップに事前に電話をかけ、商品を置いてもらう依頼をしていました。「イベントで買って頂いたお客様には、また買いたくなったらこのお店に置いてある、というのも必ずあわせて案内していました」と小池さんが言うように、一度きりの販売ではなく将来の再購入まで視野に入れた活動は徐々に実を結んでいったのです。

このように、とにかく緑茶の良さを広めたいという強い思いで会社を経営してきた小池さん。事業は軌道に乗っていったものの、決して平坦な道ではありませんでした。次回の記事では創業から15年、最も大変だったことや将来の目標をご紹介します。

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