「世嬉の一酒造」四代目・佐藤航さんをインタビュー/前編

クラフトビール大国

今回は、僕が昨年9月にNYで主催した日米を繋ぐオンラインイベント(詳しくは会社のHPにブログ記事で掲載しています)で協力していただいた「世嬉の一(せきのいち)酒造」(岩手県一関市)四代目社長・佐藤航さんをご紹介したいと思います。

世嬉の一酒造さんは、米国進出に対しとても前向きな会社。佐藤さんのお話は、現在海外展開を進めている企業さんや、今後挑戦したい方の参考になると思い、今回ブログとポッドキャストでインタビューをすることにしました。

素晴らしいお話をたくさん聞けたので、前後編に分けて紹介します。オンエアでは、上記で書いた世嬉の一酒造さんの商品開発への思いはもちろん、島崎藤村や井上ひさしら文学者と一関市との関わり、東日本大震災の時のお話なども詳しく語っていただきました。是非聞いてみてください。

ニューヨーカーに大好評! ビール片手にZoomでの酒蔵バーチャルツアー開催 

池澤:イベント当日は工房の映像を見せていただきながら、社長自ら解説していただき、誠にありがとうございました。今回イベントでは、開催に先立ち、ニューヨーク現地の参加者に御社の2種類のビールを配送。全員で「乾杯」の音頭をとり、飲んでいただきました。みなさんアルコールが入って饒舌になり、色々な質問が飛び交いましたね。

佐藤さん:解説している私自身もとても楽しく、日米の距離を感じさせない有意義な時間でした。

池澤:ビールは、岩手県の特産品である陸前高田市広田湾産の牡蠣を使った「オイスタースタウト」と、一関市産の山椒の実をホップの代わりに使用した「山椒エール」という非常にユニークな2種類でした。現在米国にはこの2種類のみを輸出されているのでしょうか?

佐藤さん:他にも種類はたくさんあるのですが、現在はその2種類です。

池澤:実はこのビール。イベント後も継続して弊社のレストランで取り扱い、両方とも同程度売れています。「オイスタースタウトは味がリッチだね」「山椒エールは、香りがいいね」と、ファンは分かれる感じですが、日本ではいかがですか?

佐藤さん:私たちは普段10種類以上のビールの種類を醸造していますが、中でもこの2商品は、常時取り扱っていただける小売・飲食店が多く、気に入っていただける方が多いです。
クラフトビールに関しては、岩手県の酒蔵が手がける意義として「より地元色が濃い商品を開発したい」という思いがあるため、僕らも地元らしさがより際立つこの2商品の販売に、自然と力が入っているのだと思います。

「世の人々が嬉しくなる一番の酒造り」がモットー。1918年創業の老舗の歴史とは 

池澤:ビールに特化した話になっていますが、御社は岩手県の一関市に造り酒屋として創業し、現在も多くの日本酒を造られています。

佐藤さん:当社は1918年に日本酒メーカーとして創業しました。

元々は横屋酒造という社名でしたが、明治時代に皇族の“髭の宮さま”として知られた閑院宮載仁親王殿下より、世の人々が嬉しくなる一番の酒造りを意味する、「世嬉の一酒造」を命名していただき、改名しました。

ビール醸造は1995年にスタート。最近ではクラフトジンも作っています。
敷地内には蔵を改築した郷土料理レストランも経営。アルコールと共に、すいとんや餅料理を出しています。

新しい商品をどんどん作っていくことに楽しみを覚えるものづくりの会社ですね。

「ニューヨークで飲まれている」ことが、社員や地域のプライドに。
地元の良さを世界に発信したい!

池澤:今までに醸造したビールの種類が300以上もあると知り驚きました。
商品開発のスピードが凄いですし、常に新しいアイデアがあることも素晴らしい。100年以上の歴史ある老舗なのに、まるでベンチャー企業のようです。

佐藤さん:より多くの方に喜んでもらうために開発を続けています。
1種類でピタリとハマる方は100人に1人かもしれませんが、100種類作れば100人に喜んでいただけるという考え方です。

今年も、バレンタインにはカカオ豆を、ホワイトデーにはキャラメルを、お花見の季節に向けて桜を使ったクラフトビールを企画。桜に関しては、桜餅の作り方を色々と勉強し、桜の味が活きたクラフトビールの IPA (インディアペールエール)を考案。ビールの苦味の中に、桜の葉っぱの甘味が出る、日本らしいフレーバーのビールが完成しました。

池澤:面白いですね! 桜のクラフトビールは、まさに海外で販売してみたい逸品です。

佐藤さん:我々としても、是非ニューヨークで販売したいです。

当社が岩手の田舎町にある会社だからこそ、「うちの会社(町)では世界レベルで商品を作っていて、ニューヨークでも飲まれている」という事実は、スタッフはもちろん、地域の人のプライドにも繋がります。

クラフトビールの本場であるニューヨークやポートランドで、それぞれの土地で様々なブルワリーが個性を発揮している様子を見た時、私たちが岩手県で醸造する意味とは?」「日本人が造るクラフトビールの良さは?」と考えさせられました。

そしてたどり着いた答えが日本の文化の発信です。和食や和菓子、日本酒の醸造技術を活かして新しいクラフトビールを造り、様々な国の方々に飲んでいただくことが、我々の使命だと思います。

池澤:僕の会社のミッションとピタリと合うところです。ぜひ、世界に広げるお手伝いをさせていただけたら嬉しいです。

佐藤さん:うちのお酒やビールを飲んだ方から「美味しい。これはどんな場所で造っているんだろう」という思いが湧き、国内外からたくさんの人が訪れて、町の活気に繋がると嬉しいですね。

池澤:昨年末からはクラフトジンも販売されています。ジュニパーベリーは当然ながら、ボタニカルも地域のものを使っているのでしょうか?

佐藤さん:岩手県は自然豊かですので、山に行くと様々な植物があります。クラフトジンには、地元産のジュニパーベリー、ヒバ、山椒の実、クロモジを使いました。

池澤:なるほど。地元の食材を使い、地域の方々と一緒に協力されているところも、まさにクラフトですね。このように地域との繋がりが強いところも、世嬉の一酒造さんのユニークさですね。

佐藤さん:僕らは「新しいものに挑戦」「オンリーワンを目指す」を会社の理念として掲げています。これらは「競争はせず、みんなで一緒になって生きていく」ことに繋がっています。世嬉の一酒造は、この地で育てられ、地域の方々と一緒に経営させてもらっています。過疎化が進み、どんなに人口が減っても「町と一緒に生きていく」のが当社であり、ここで暮らす人たちと共に町を盛り上げたい。この思いを代々受け継ぎ経営を続けています。

酒蔵が残ったのは祖母の一言のおかげ 東日本大震災を経て社長に就任 

池澤:佐藤さんはどのような過程を経て、社長に就任されたのでしょうか? 

佐藤さん:僕が生まれた当時は、酒蔵を祖父がやっていて、父親は自動車学校を経営していました。そのため、自分は自動車学校の息子だと思いながら、小・中学校時代を過ごしました。
ただ、僕が高校へ入る時に、祖父が「酒蔵はもう駄目だから辞めて、自動車学校をやりなさい」という遺言を残し、脳溢血で急に亡くなりました。

祖父の遺言通りに父たちが動いていたら、「この土地でスーパーやホテルをしたい」という話が多数舞い込みました。しかし、祖母が「この蔵を壊すのはもったいない」と言ったことをきっかけに、私の父が二つ経営していた自動車学校を一つ売却して、酒蔵に再投資。蔵を潰すことを辞めました。

当時はただの古い蔵ということで「壊してしまえ」という流れになったのですが、実は東京駅を設計した辰野金吾さんの弟子である小原友輔さんが手掛けた蔵で、現在は国指定文化財に指定されています。

さて、私の父が投資して継続させた酒蔵ですが、当時の経営状態はかなり悪く、年間の売り上げが2千万円なのに対し、借金が二億円もありました。そのため高校時代の僕は、父と母が苦労する様子をずっと見ながら生活していましたね。

その後、私は大学で関東に行き「微生物学」を勉強しました。

微生物学といっても、醸造ではなく環境微生物を専攻し「どうしたら効率良く、水がきれいになるか」ということをずっと研究していました。

そんなある日、大学で先生と話をしていて、

「研究所の先生は、研究一筋で世間が狭いな…」と、ふと思い、

「海外に住んでみたい」「大陸がある所に住んでみたい」と思い立ち、大学を1年間休学してオーストラリアに行きました。

お金がなかったのでヒッチハイクをして、メルボルンからパースまで往復したりして楽しみました。

そして、帰国すると、ちょうどバブルが崩壊していて、就職先がなくなっていまして…。ご縁があって船井総合研究所というコンサルタント会社に入り、中小零細企業のマーケティングをしながら、様々な地方の他業種を見て回りました。

そんな仕事をやっているうち、「実家が大変だ」という知らせが入りました。当時の僕から見ると、地方で頑張っている魅力的な会社に思えたので「継ごう」と決めて、帰ってきました。戻ると日本酒屋なのに「ビールが大変だ」ということで、ビールづくり担当に任命されました。ビール醸造の工場長になり、さらに常務になり、そして38歳の時社長になったんです。

しかし、就任して10日後、すぐに父親と喧嘩をしまして、そこから1年間勘当され、フラフラしていました。僕も父も会社を良くしたいのですが、世代が違うのでやり方が異なり、意見がぶつかりまして…(笑)もう、親子喧嘩です。

1年後に父親から呼び出され「おまえはどうしたいんだ」って聞かれ、「僕は会社を大きくするために帰ってきたと思っているよ」という話をしたら、「じゃあ戻れ」と。まあ、戻ってきても、お互い謝ってないのでギクシャクしていたのですが、そんな時に、東日本大震災が起きて、地震で蔵が崩れ、父も、母も倒れて。その時先頭に立って頑張っていたら、父親から正式に「もう1回社長を譲る」と言われ、2012年の4月から正式に社長になりました。

そこからは会社を任せてもらい、父親も何か困った時にだけアドバイスしてくれるような感じで自由にやらせてもらっています。
現在、震災から10年が経ち、会社はその当時から比べるとずいぶん良くなったなと思っています。

世嬉の一酒造HP



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NY進出が他国への輸出に大きく影響したかについて語っていただいた後編では、世嬉の一酒造さんが海外に商品を輸出する際にどのような苦労があったのか、また、どのようにしてその苦労を乗り越えて来たのかについて、インタビューの続きを紹介します。